教育界の試み

2018年5月24日更新

第Ⅰ部 教育とは何か

第三章 社会化と教育 ―先の教育論に対するもう一つの批判―

 教育は、教える者と教えられる者が人間として知るべき同じことを同じように知ることを目指す営みである。この意味での教育が成り立つためには、教える者と教えられる者の双方がともに知って受け入れるべきことがあるのでなければならない。そしてまた、その同じことを同じように知るだけの能力をもつのでなければならない。この二つの条件があればこそ、教育が始まる時点では、一方が知り、他方が知らない状態であったのに、教育が終わる時点では、双方が同じことを同じように知る状態になることができる。

 我々は、これが教育の本来のあり方だと考えた。この教育論に対して、子どもは未だ大人と同じように知る能力を持っていないという批判がある。前章で、この批判に対する反論を述べた。この教育論に対しては、さらにもう一つ批判がある。この教育論では、教える者と教えられる者がともに知るべきことが、「人間として知るべきこと」といわれている。つまり、教育において教えられることは、すべての人間にとって同じことだといわれている。しかし、そうではない。教育において教えられることは、時代や社会によって異なる。教育は、各社会においてその社会の構成員として必要なことを教える。したがって、教育において教えられることは、各社会においてその社会の構成員にとっては同じことであるが、すべての人間におって同じことではない。このような批判である。

 先に、我々の教育論を説明するために分数計算の例をあげた。分数計算の方法は、人間が作るものではなく、人間にとって所与のものである。教師であろうと子どもであろうと、あるいは他の誰であろうと、分数計算をしようと思えば、その正しい方法に従わなければならない。ほとんどの子どもは、この方法を教えられて知る。しかし、幸運に恵まれれば、誰にも教えられずに自分自身で発見することもありうる。すえての科学的知識は、最初にそれを発見した人は自分自身で発見したはずである。教師が教える知識がもともと子どもが自分で発見しうるものであればこそ、子どもは教師の説明を聞いて、その説明を理解して受け入れるのである。我々が「分かった」とう経験をするのは、そのためである。

 科学的知識の教育については、我々の教育論が正しいようにみえる。しかし、道徳や芸術の教育についてはどうか。分数計算の正しい方法は誰にとっても正しい方法である。しかし、道徳的な善悪は時代や社会によって異なるのではないか。人によっては、個人によって異なるというかもしれない。かつて人間は各自自分の身分をわきまえて生きるべきだとされてきたが、いまでは人間は誰も平等だとされている。道徳が時代や社会によって異なるものであれば、子どもが道徳を知るためには、子どもの生きている時代・社会の道徳を知っている人から教えてもらうほかないであろう。教えられたことを覚えて、自分もそれに従うしかないであろう。

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12/12 更新
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