教育界の試み

2018年7月26日更新

第Ⅱ部 これからの公教育

第七章 教育と政治―公教育の中立性 中立な教育内容―

 国民の意志は多様かつ可変である。その多様な諸意志が平和的に共存する場合には、あえてその統一を図る必要はない。しかし、国家として一つの意志をもつ必要がある場合には、政治的な手段によって一つの意志を選択し、国民全体をその意志に従わせるほかない。これが政治の任務である。教育は、その時その時の必要に応じて決定された国家としての統一意志に子どもたちを従わせることをめざすのではない。教育は、国民の意志が多様かつ可変である社会において、自律的に生きることのできる人間の形成をめざす。したがって、教育は政治に従属してはならない。この点は、従来から、公教育の中立性の原則として受け入れられてきた。しかし、「中立」という語の解釈如何によっては、この原則が教育の政治への従属を正当化してしまうことがある。以下、この点に注意して、公教育の中立性を維持するための具体的な方策を考えることにしよう。

 学校で相互に対立する考え方がある事柄を教える場合、公教育の中立性は、どのようにして維持されるか。何も教えない、つまり対立する考え方のある事柄は教育内容から排除するというのが一つの方法である。今日、わが国の公立学校の多くで宗教についてほとんど何も教えないのは、その一例である。この方法は、公教育が偏った考え方を教えることはしないという点で積極的に中立性を侵すことはない。しかし、社会に偏見があるときには、その偏見を放置するという点で消極的に中立性を侵すことになりうる。

 一般に対立する考え方の一方が圧倒的な多数を占め、他方がごく少数派である場合には、前者の後者に対する無知や誤解による偏見が生まれることが多い。多様な考え方が平和的に共存することをめざす社会は、この種の偏見をなくすために、積極的な役割を果たすことが必要である。多数派の考え方に基づいていることを教えなければならない。これは、けっして公教育の中立性を侵すことにはならない。

 ただし、社会における考え方の対立が厳しくて学校で冷静な比較検討を行いえない状況では、学校でその問題を取り上げることによって学校の平和的秩序が壊されることがありうる。この場合には、学校が闘争の場ではなく教育の場であることを確保するために、学校ではその問題に触れないという選択もせざるをえないであろう。あるいは、その問題が子どもに興味関心のわかないもの、または子どもには理解できないものであれば、やはり学校ではその問題を取り扱わないということがあってもよい。

 相互に対立する考え方が学校で取り上げうる程度に平和的に共存している状況で、その対立が子どもの興味関心を呼び、また理解可能でもあるならば、その問題は学校でも教えられるべきである。その場合、どのようにすれば、公教育の中立性は維持されるか。しばしば、相互に対立する考え方の争点を避けて共通部分だけを教える、あるいは争点を示してもその比較評価はしないという教え方が提唱される。たとえば、多種多様な宗教宗派について、その共通点だけを教えるが、相違点や対立点には触れない、あるいは、あるいは触れても比較評価はしないという方法である。。

 相互に対立する考え方のいずれにも偏らない一つの中立な考え方を見出すことができるのであれば、この方法を実行することができるであろう。しかし、多くの場合、中立な考え方は見いだされない。たとえば、宗教教育であれば、すべての宗教宗派に共通の宗教的情操とでも呼ぶべきものを教えればよいと言われることがある。しかし、その宗教的情操の具体的内容が明確にされたことはない。とくに宗教に関しては、宗教を人生にとって重要な意味をもつと考える宗教肯定論と宗教を弱者をだます幻想にすぎないと考える宗教否定論とがあり、宗教教育の中立性を守るのであれば、この二つの考え方を無視するわけにはいかないであろう。しかし、この両者に共通な宗教的情操など考えられないのではあるまいか。

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12/12 更新
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