教育界の試み

2018年7月5日更新

第Ⅰ部 教育とは何か

第五章 道徳教育 ―道徳の捉え方 普遍的な道徳―

 自然法則のように人間にとって所与のもの。人間の外部にあるものについては、誰でも適当な経験をしさえすれば、自分自身でそれに気づくことができる。だから科学教育は、子どもが自分自身で気づくように手助けすることで足りる。しかし、道徳は、自然法則とは違って、人間にとっての所与ではなく、人間自身が決めるものである。それゆえに、道徳は子どもが自分自身でよく考えれば知ることができるというものではない。道徳を知らない子どもは、それを知っている大人から教えてもらわなければならない。したがって、道徳教育は、各社会で通用している道徳を子どもに確実に教え込むほかない。道徳教育については、しばしば、このように考えられる。

 この考え方に従えば、今我々が「盗みをしてはいけない」という道徳に従っているのは、幼いときにそう教え込まれたからだということになる。そうであればまた、幼いときに「盗みは見つからないようにせよ」という道徳を教え込まれれば、これが道徳になるということにもある。それほど極端ではなくても、多くの社会で、かつて人間は身分相応の生き方をするのが道徳的に正しいことだとされていたが、今日では人間は誰でも平等であり、身分相応の生き方をさせるのは差別であり、不道徳であるとされている。道徳は時代や社会によって変化してきた。この事実を考慮すれば、道徳は人間が決めるものだという考え方が正しいようにみえる。

 しかし、そう考えてしまうのは早計である。道徳が人間の決めるものだとすれば、恣意的なものになってしまうからである。道徳は、人間の行動や思想の善悪を判別する基準である。強者はしばしば自分勝手に道徳を決め、これを弱者に強制する。弱者はやむをえずこれに服従する。その結果、強者の決めた道徳がその社会の道徳となり、人々の行動や思想の善悪を判別する基準となる。そうなってしまえば、その道徳がどんな道徳であっても、それを悪い道徳だということができなくなる。既存の道徳が善悪の判断の基準となるのであれば、既存の道徳に反対することはそれ自体悪いことになる。それにもかかわらず既存の道徳に反対する人々は、その勢力が弱いうちは感情的・主観的に反発しているものとして無視され、ある程度勢力が強くなれば社会を混乱に陥れるものとして断罪されるであろう。したがって、道徳はそもそも人間の決めるものだとするならば、既存の道徳を批判検討することができなくなる。

 人間が決める道徳が道徳的な善悪を判断する最終的な根拠とされる社会では、既存の道徳に対する批判を抑圧することが社会の秩序を維持するために必要不可欠となり、道徳的に善いことになる。その場合には、道徳教育は既存の道徳を確実に子どもたちに教え込む役割を担わせることになるであろう。このような社会は、強い権力的統制によってしか安定させることはできない。しかし、権力的統制によって人間社会に真の安定をもたらすことは不可能である。

 人間社会が真に提案安定するのは、その社会を構成する人々が自発的にその社会の道徳に従う場合に限られる。そのためには、既存の道徳に対する自由な批判が許され、その批判が妥当であれば、その批判に応じて道徳を作り変えることができるのでなければならない。その場合には、道徳教育もまた、既存の道徳を子どもの押し付けるのではなく、子どもが自分自身で納得するかぎりで受け入れるという仕方で、つまり子どもが自分で受け入れるべき道徳に近づくという仕方で教えることができるであろう。否、そうなることが求められるであろう。このような自由な社会が成り立つためには、人間の作る道徳をもって道徳的な善悪を判断する最終的な基準とするころはできない。

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12/12 更新
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